【第24回】衝撃の書「ホモデウスを読む」 – “メントモリ”枯れるような老い方

さすがに私自身は、「老い」というにはまだまだ遠いと思っているのですが、人は誰しも「老い」るもの、もっと言えば死なない人間は今のところ存在しません。

やはり自分なりに「老いる」とか「死ぬ」ということを考えてしまいますよね。
そんな「死生観」は、やはりどんな人にとっても人生の生き様とか価値観を定義していきます。
もちろん研究尽くして、考え抜いて「一切考えない」という判断をされる養老孟司先生のような考え方も参考になります。
【第13回】衝撃の書「ホモデウスを読む」 - 死という厄介な概念
歴史を通して、宗教とイデオロギーは生命を重要視しなかった。両者は常に、この世での存在以上のものを神聖視しし、その結果、死に対して非常に寛容だった。それどころか、死神が大好きな宗教やイデオロギーさえあった。キリスト教とイスラム教とヒンドゥー教...

余談ですけれど、”メントモリ memento mori”という有名なラテン語「死を忘れるな」とか「我々は必ず死ぬ」という意味ですが、本場ではどう使われるんですねかね。こんなこと言われても、「で、どうすりゃいいの?」と聞き返したくなります。なんでも発祥はローマの将軍が凱旋するとき従者がそんな看板を持ってパレードしたことに由来するそうです。確かに、映画や書物でそんなシーンありました。でもそうだとしたら、ローマ人ってなんて懐が深い知的な民だったのでしょうね、普通の猛々しい将軍なら頭にきそうなものですが。

(パブロ・ピカソ「老いたギター弾き」)

それよりも”メントモリ memento mori”、案の定”だから今を楽しめ”という考え方に結び付けて使われた時代が多いようです。

だとしたら、どうでしょう、クラブ”メントモリ”なんて。イケてませんか?
エピキュリアン、快楽主義者の殿堂という感じがします。
でも、この連載では何度も書いていますが、厄介なのは快楽主義が必ずしも”多幸感”の最大化を約束してくれないジレンマです。
【第16回 】衝撃の書「ホモデウスを読む」 - 幸福追求の強迫観念に苦しむ皮肉
さてホモデウス冒頭では人類700万年の歴史で極めて例外的に現代に生きる我々が『飢餓』『疾病』『戦争』という宿痾を克服しつつある(この程度で?と言う見方もありますが、それまでの700万年に比べれば著者のハラリが言うように飛躍的にましな状態であ...
残念ながら、その快感はたちまち冷め、遅かれ早かれ不快感に変わる。たとえワールドカップファイナルで決勝のゴールを決めたとしても、その至福が一生続く保証はない。それどころか、その後はずっと下り坂ということになりかねない。同様に、もし私が去年、仕事で予想外の昇進を果たしたとし、今なおその地位にあったとしても、朗報を耳にしたときに経験した強い快感は、数時間のうちに消えてしまっただろう。そのような素晴らしい感覚をまた経験したければ、もう一度昇進しなければならない。そして、その後も、繰り返し昇進する必要がある。そして、もし昇進できなければ、ただの平社員のままだったときよりも、はるかにつらく、腹立たしい思いをする羽目になるかもしれない。
これはすべて進化のせいだ、私たちの生化学系は、無数の世代を経ながら、幸福ではなく生存と繁殖の機会を増やすように適応してきた。生化学系は生存と繁殖を促す行動には快感で報いる。だがその快感は、束の間しか続かない。いわば、次から次へと買わせるための販売戦略のようなものにすぎない。私たちは空腹という不快感を避け、快い味や至福のオーガニズムを楽しむために、食べ物と生殖行為の愛てを得ようと奮闘する。ところが、快い味や至福のオーガニズムは長続きせず、再びそれを感じたければ、さらに食べ物や相手を探しに出なくてはならない。
ユヴァル・ノア・ハラリ. ホモ・デウス 上 テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来
(Kindle の位置No.750). 河出書房新社. Kindle 版.
Bitly
Bitly
最近、すごく印象に残る記事を読みました。
人気俳優として日本全国に顔を知られていた矢崎滋さんが、地方の安ホテルを根城に日々ショボ博打の隠遁生活をしているというのです。
矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生” | 週刊女性PRIME
『白鶴まる』のCMでおなじみ俳優・タレントとしても活躍した矢崎滋。'06年にCMを降板して以降、消息がつかめなくなっていたが──。東北でみつけた彼の、衝撃の現在。

そういえば同じような印象の記事は、もう少し前にもありました。この記事のあと実際に亡くなってしまった、かつて「金ピカ先生」として一世を風靡したと佐藤忠志さんが「生きていても意味がないから」とボロアパートで世捨て人のような暮らしをしているときのインタビューです。
追悼 予備校講師「金ピカ先生」が我々だけに語った「最期の言葉」(週刊現代) @gendai_biz
我々は8月末日、「かつて一斉を風靡した人びとに、近況を尋ねに行く」という趣旨の取材で佐藤さんのもとを訪れていた。佐藤さんは快く応じてくれたが、かつてから変わり果てた生き様には、「人生とはいったいなんだろうか」と、深く考えさせられるものがあった。追悼の思いを込めて、その日のことを振り返る。

お二人とも、テレビにもガンガン登場して一時は有名でしたし、特に金ピカ先生はメルセデスベンツSLに颯爽と乗って何億円という年収でも知られていただけに、確かにちょっと衝撃的ではありました。
ネット上では、こんな可哀想な境遇に追い込まれている老人を追いかけるんじゃない。という意見もありましたが、インタビューを読むとどうなんでしょうか?皆さんはどう感じられましたか?私はまったく可哀想とも思いませんし、むしろ「なるほどな」と人間としての共感をおぼえましたし、むしろこんな枯れ方もありなのかもと思いました。

もちろん全盛期のお二人は幸せの絶頂でらっしゃったことでしょう。最高の料理を食べ、チヤホヤもしてもらって。
でも先ほどの「ホモデウス」の一節にもあるように、人間は飽くなき生存と繁殖のモチベーションに突き動かされています。仏教的考えではないですが、その煩悩がむしろ人を苦しめる部分も間違いなくあります。

一方で世の中には、死ぬまで権力と富を持ったまた亡くなられる方もいます。中曽根康弘元首相や森喜朗氏、渡辺恒雄氏など政財界には引退する時が死ぬときという勢いで頑張ってらっしゃる方もたくさんいます。もちろん人一倍の能力を生涯名誉ある立場で勤勉に生かす生き方は誰が見ても素晴らしい。

でも、どうなんでしょう。私は、矢崎滋さん佐藤忠志さんのインタビューを読んで、若い時にやることをやり尽くして納得し、枯れるように欲をなくす老い方、死に方も全然悪くないと思いました。そりゃ人間色々あるわけです。伴侶に先立たれたり破産する人だっているでしょう。だからってその”老い”が不幸と決めつけるのは、血気盛んな働き盛りの価値観に当てはめる浅略なものの見方のような気がします。
むしろ、終わりのない我執や欲から卒業し、ポロっと花が落ちるように死んでいく枯れ方の爽快もあるのではないでしょうか。

過去記事一覧 衝撃の書「ホモデウスを読む」

【衝撃の書 ホモデウススを読む】 過去記事一覧へ

記事の更新情報をお届けしています。ぜひフォーローください。


facebookはこちらから。

タイトルとURLをコピーしました