【第16回 】衝撃の書「ホモデウスを読む」 – 幸福追求の強迫観念に苦しむ皮肉

さてホモデウス冒頭では人類700万年の歴史で極めて例外的に現代に生きる我々が『飢餓』『疾病』『戦争』という宿痾を克服しつつある(この程度で?と言う見方もありますが、それまでの700万年に比べれば著者のハラリが言うように飛躍的にましな状態であることは間違いありません。)という認識を出発点に、ついては人類は、それこそ人類的なテーマとして今後何に取り組むのかという論点が検討されます。
前回まで語られたようにその第1のテーマは『不老不死』でした。
それでは第2の人類的取り組み課題はなんでしょう。

『幸福に対する権利』人類の課題リストに入る二つ目の大きなプロジェクトはおそらく、幸福へのカギを見つけることだろう。歴史を通じて、無数の思想家や預言者や一般人が、生命そのものよりもむしろ幸福を至高の善と定義してきた。古代ギリシアの哲学者エピクロスは、神々の崇拝は時間の無駄であり、死後の存在というものはなく、幸福こそが人生の唯一の目的であると説いた。古代の人のほとんどはエピクロス主義(快楽主義)を退けたが、今日ではこの主義が当然の見方になっている。人間はあの世の存在を疑っているために、不死ばかりでなくこの世での幸福も追求しないではいられない。永遠に生きられたとしても、永遠に悲惨な状態で生きるのでは意味がないのではないか。

ユヴァル・ノア・ハラリ. ホモ・デウス 上 テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来
(Kindle の位置No.523-551). 河出書房新社. Kindle 版.
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「人間はあの世の存在を疑っているために」という一文が非常に象徴的に感じられました。
科学はその力で、人類を『飢餓』『疾病』『戦争』から救いました。明らかに我々現代人は科学主義の時代を生き、その格別に大きな恩恵を受けて過ごしているわけですが、一方で神秘的な気分は完全に失ってしまいました。
この世で善行や功徳を積めばあの世で天国に行ける。と確信することができればある意味非常に気が楽です。そう考えることができれば、ある意味思考の上では『不老不死』が実現するようなもので、今生に執着もわきません。
しかしながら、文系人間で科学者に程遠い私でさえ「人間はあの世の存在を疑っているために」とあるように、科学的知識の範囲では「あの世」の存在を疑わざるを得ない。
とは言え、すでに過去述べましたように私個人は「あの世」の存在は疑わしいかもしれないがワンチャンどんな形式かはわからないけれど、「あの世」的な何かこの人生の先があるかもしれないと考えよう。というものです。しかしながら、でも「疑わしさは」払拭しようがありません。
そしてそれが現代人共通の認識であることもまた間違いなく。飲み会で「あの世」話を開陳すれば間違いなく微妙な空気感が漂うことになるでしょう。

たった一度の人生さ

つまり上記ホモデウスで書かれているように、現代人の我々は「あの世の存在を疑っているために」、「たった一度きりの人生やりたいことをやり尽くして死のう」と考えます。

ここからがやっかいなところで、「やりたいこと」とか「自己実現」という概念が非常にあやふやなのです。
上記ホモデウスからの引用にもあるようにエピクロス主義(快楽主義)にも昔から疑念が多い。

先日紀州のドンファンという方が憤死しました。これはご本人の信念信条ですからとやかく言う気もなく、むしろ薄っぺらなおためごかしで性欲というものから目を背けている多くの人々をあざ笑うかのようで、健在な頃の性豪武勇伝はある意味爽快ともいえるものでした。
でも憤死の壮絶さを含めて、本当に幸福だったんだろうか?と、誰しもがそれはそれで疑問に思ってしまうこともまた事実ではないでしょうか。

紀元前5世紀 快楽主義の限界を示唆した釈迦

そんなことを言えば、王子として非常に恵まれた環境に育ったガウタマ・シッダールタが、若かりし頃酒池肉林の放蕩を尽くしたが。それでも尽きない欲望に身を焦がされる地獄から抜け出るためにも修行をつみやがて悟りを開き釈迦となり仏教を開いた話は日本人であれば子供でも知っています。

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仏教では欲にとらわれ過ぎない生き方こそが、心の平穏、より良き人生を実現すると考えているわけです。
もちろん、仏教的な教えが世俗的とはいえ広く受け入れられている日本人の質素勤勉さが美徳であり生きる知恵でであることは私も大賛成です。やはり、仏教の思想は輪廻転生の考えを含めて知られている様々な教義思想の中では、現代科学とも整合的な部分が多いように思います。スティーブ・ジョブズなど科学的思索的な現代人に仏教の理解者が多いこともうなずけます。
でも仏教に帰依すればそれで解決と確信するまでには私個人は至っていません。確かに仏教は素晴らし思想・教えの宝庫とは思いますし、京セラの稲森和夫氏のように仏教の教えを実生活や仕事に落とし込んで成功されている方を見れば素直に賢明で素晴らしいことと思いますが、例えば自分にそのまま当てはまるようにも思えずにいます。

一方、日和見的モヤモヤ症の我々

つまり。快楽主義も疑わしいし、禁欲主義的ストイシズムも性に合わない気がする。
僭越ながら、私を含め多くの人はいかに生きるべきか日和見的とはいえ結構悶々としているというのが実態ではないでしょうか。
それゆえ「自己実現」とか「モチベーション」「自分探し」などという言葉が愛用され、書店では自己啓発コーナーが大盛況です。
それほどに「幸福追求」と一言で言いますが、「幸福」の定義自体が難しいし、下手すればみんなもっと上の幸福があるのではないかと奔走するわけです。
養老孟司先生流に言えば、「自己実現」とか「自分探し」という答えのない課題設定自体が我々を強迫観念的に圧迫しているのではないかという論も説得力があるように思われます。

「幸福感」はあくまで我々一人一人の心の中にあります。それがゆえ、人が羨む環境でも、いや人が羨む環境がベースラインであるがゆえその上をいく「多幸感」を求めて、覚せい剤やギャンブルの刺激に走る人がいるぐらいです。もちろん刹那的な「多幸感」の追求が人間を結果幸せにしないことは歴史的に証明されてしまっています。

人間ってつくづく面倒くさい生き物ですね。

少なくとも言えることは、科学主義で宗教が死んだ現代。一方で情報量も多く、安直な啓蒙や啓発の理論も世に氾濫していますが、飛びつくほどには説得力がない。
実に我々は答えのない時代を生きていることだけは間違いがないように思います。
それゆえにホモデウスや養老孟司先生の本のように、人類や人生の本質を予見なく論じる考察が今多くの人に求められているのではないかと思います。

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