【第23回】衝撃の書「ホモデウスを読む」 – コロナの今、ホモ・サピエンスのみが持つ「虚構」を語れる能力を考える

新型コロナショック流行の第一波は、日本人にとっては不幸中の幸いにして最悪のパンデミックを免れました。でもまったくのラッキーパンチ、結果オーライに過ぎなかったわけです。原因についてはすでに様々な仮説が提示されていますが、これからの研究が待たれます。
アゴラ池田信夫氏記事

何せ、(感染のピークアウトが見えていた時点での)緊急事態宣言が新型コロナウイルス流行を収束させたという美しきフィクションは、すべての対策が後手後手に回ったあげくの政治家の誤魔化し、デマに過ぎませんから、許してはいけないと思います。(この点はまたアゴラ等で詳しく考察したいと思います)
【アゴラ掲載】“苦しゅうない”の安倍バカ殿イズムに猛省を勧告する
本日もアゴラに掲載いただきました。 数日前にもアゴラに「専門家会議」のスタンスや方針への疑問を記事にさせていただきました。 いいね!を900ほどもいただき、誰もが意義を言いにくい偉い先生方への異論提議ですから、ちょっとヒヤヒヤし...

そんな政治的な言説含めて、今回のコロナショックでは情報爆発いわゆるインフォデミックが発生したことは間違いありません。

スポンサーリンク

ホモサピエンスがホモサピエンス足り得た「虚構を語り、信じる能力」

「ホモデウス」の著者、ユヴァル・ノア・ハラリ前著にして世界的ベストセラー「サピエンス全史」では、人類が人類になり今の繁栄を享受できるまでに至った大きな原因を「人類のみが事実だけでなく虚構を語れる」という点だと指摘して、世界に「なるほど!」と大きな知的衝撃を与えてくれました。下記引用は「サピエンス全史」の中でも最もインパクトのある一節だと思います。
ただ、今回のコロナウイルス流行を発端にするインフォデミック的な展開をみると、「人類のみが事実だけでなく虚構を語れる」という能力について負の側面も考えざるを得ないように思えてきました。
普段はハラリ氏の「ホモデウス」を読んでいる本連載ですが、今回緊急に「サピエンス全史」について触れたいと思います。

私たちの言語が持つ比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。
伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ!ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで。「ライオンはわが部族の守護神だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
現実には存在しないものについて語り、『鏡の国のアリス』ではないけれども、ありえないことを朝食前に六つも信じられるのはホモ・サピエンスだけであるという点には、比較的容易に同意してもらえるだろう。サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け負ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってはもらえない。だが、これはどうして重要なのか?なにしろ、虚構は危険だ。虚構のせいで人は判断を誤ったり、気を逸らされたりしかねない。森に妖精やユニコーンを探しに行く人は、キノコやシカを探しに行く人に比べて、生き延びる可能性が低く思える。また、実在しない守護神に向かって何時間も祈っていたら、それは貴重な時間の無駄遣いで、その代わりに狩猟採集や戦闘、密漁でもしていたほうがいいのではないか?
だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけでなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の民主主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。

ホモ・サピエンスが他の動物が足元にも及ぶことができない圧倒的な文明を築き繁栄した理由として、二足歩行を始めて火や道具を扱うようになったことや、脳の容量が大きくなったことは教科書的に誰でも知っているわけですが、「虚構を語り、それを共同体で共有できる」力にあるという視点は少なくとも私にとっては斬新なものでした。もしかしたら専門的な研究の中ではすでに発見されていたことかもしれませんが、「サピエンス全史」が世界的ベストセラーになったことも考えると、恐らく多くの人にとってそんな驚きがあったのではないでしょうか。

Oberholster VenitaによるPixabayからの画像
   
それにしても今回のコロナ騒動で、日本だけを考えればハラリ氏が指摘する通り「虚構を語り、共同体で共有できる」ホモ・サピエンスならではの力の、危険な負の側面が出てしまいましたね。
もちろん未知のウイルスですから警戒することはとても重要で、私なんかも「本たんさんタワー」を読んでいただいている読者の方はご存知かと思いますが、一番初期から最大限心配していた方です。でも日々警戒していたからこそ分かるわけですが、欧米と違い日本での流行拡大はパンデミックには至りませんでした。ですが、その傾向がすでにはっきりしてきていた3末~4月にかけてメディアの煽りもあり、世論の動揺、政治家ののポピュリズムにより、致命的な緊急事態宣言となってしまったわけです。まさにトンチンカン。日本はまさに「虚構」によって、経済的には今後”失われた数十年”を過ごすことになることは間違いありません。死者も自殺、医療体制の脆弱化によってコロナウイルス流行よりはるかに多く失われていくに違いありません。私なぞは、国力がこれ以上弱まれば国防上のリスクも相当程度に高まると心配しています。

日本人はサイエンスフィクションを失った

つくづく感じるのが、「虚構=フィクション」という文脈で考えたときに、日本人が「健全な共通の虚構」を信じる力を失ってしまったのではないかということです。今回「社会の分断」を言われましたが、その分断の根源は「共通の虚構」ちょっと大げさに言えば我々の社会が「共通の夢」を見れなくなってしまった状況とも分析できるのではないでしょうか。
振り返れば、バブル以前までの昭和の高度成長期。日本が成長していた時代は、サイエンスフィクションの時代でした。鉄腕アトムに星新一のショートショート。銀河鉄道999に音楽ではシンセサイザーの冨田勲。みんなが科学で豊かな未來がが実現することを信じ、共有していました。現実にも、そんなサイエンスフィクションが新幹線やビデオレコーダー、家庭用ゲーム機など続々と実現していった時代で、「虚構=フィクション」にも圧倒的な説得力があった時代が確かにあったのです。

でも、いつの頃でしょうか。私の体感ではバブルの頃からもしれません。日本人は健全な虚構を失い、あまりにも即物的になってしまったように思います。
特に今回のコロナ騒動ででは、科学主義後退の惨憺たる状況も目の当たりにした気がします。
要は警戒するにしてもしないにしても考え方は双方あって良いが、そこに科学的視点がまったくないのです。文明観をもたない専門家の問題もありますが、政治も国民もあまりにも科学的センスが落ちてしまっている。情緒と感情論の空気感だけでものを判断し、せっかく科学主義で営々と築き上げた日本の繁栄を今まさに駄目にしかけているのが現状だと思っています。
【アゴラ掲載】専門家の後講釈という不実。“死の行軍”続行諮問の面の皮
今朝のアゴラに掲載いただきました。 もちろん専門家会議のメンバーは錚々たる方々ですから、私とて科学者でも医者でもないのですから100%信じたいです。 いや、もちろん当初は専門家の方すべてを信頼してきました。 ただやはり緊急...

まったくの結果オーライに過ぎませんが、日本はコロナではパンデミックに陥らなかったのです。
それにも関わらず、自ら非科学的なポピュリズムでしなくても良かった緊急事態宣言を発動し、後退の道を歩んでしまった。そんな最悪の状況の伏線は失われた20年とも30年とも言われる令和時代、世界がIT革命の熱に浮かされている期間に、何の「日本人の夢」も描けなかったことにあるのかもしれません。

過去記事一覧 衝撃の書「ホモデウスを読む」

【衝撃の書 ホモデウススを読む】 過去記事一覧へ

記事の更新情報をお届けしています。ぜひフォーローください。


facebookはこちらから。

タイトルとURLをコピーしました