志村けんへの弔辞。どこか孤独を感じさせる男のカッコ良さ。

あえて敬称略で書かせていただきます。
だって、「志村けん」はボクらが小学生の頃からむしろ乱暴に「志村けん」だったわけで、絶対「志村けんさん」などという水臭い呼び方では弔辞にもならないように思いますので。

いつの頃だったでしょうか。志村けん死亡説がまことしやかに流れたことがありました。どんな時代も含めていつもテレビに出ていた人ですから、たまたまレギュラー番組の端境期か何かでちょっとテレビで見ることがなかった時期だったかもしれません。
ちょっと都市伝説的なノリで、「おい知ってる”志村けん”死んじゃったんんだってよ。」とか唐突に誰かが何の脈絡も背景説明もなくぶっこんでくる体の話だったように記憶しています。
もちろん実際には何の根拠もないまさに都市伝説的な言質に過ぎなかったわけですが、なぜか聞いたときは「マジか!?」と誰もがちょっと真実味を感じてしまうような空気感がありました。なんだったんでしょうね、もちろんみんなが身近に感じているのに最近ちょっとテレビで見ないなということがあったかもしれません。でも今振り返ると何より志村けんが持っていた、独特な孤独感みたいなものが「死んじゃった」という言葉に妙な説得力を持たせる気分があったように思えてなりません。

「師匠」と呼ばれる今や大御所的な立場でらっしゃいました。それはそうです。芸能界、テレビ局関係者みんな子供の頃から志村けんの笑いを見て育った。その本人を目の前にして「あ~本物の志村だ~」と興奮しない人はいないはずです。でもどこか謙虚というか、そんなみんなが見上げるような立場になっても、どこかいつもはにかんだような感じで過ごしてらっしゃったように思います。
やはりスタートがドリフターズの付き人出身で、あの昭和の今ならばパワハラのいかりや長介をトップにいただくヒエラルキーの中で末端からスタートした印象もなんだかんだあるのかもしれません。自分の一座、ファミリーに囲まれるようになってもどこか絶対君主的なたたずまいとは無縁でした。
何より、冒頭にも書きましたが、どの世代の小学生からも絶賛「し~!む~!ら~!」と全力でタメ呼ばわりされるって、そんな人他にいるでしょうか。どこかで偉くなってしまったり。ヨガとか他の道にいってしまったり。そもそも時代から相手にされなくなったり。簡単なようで誰もできない、ナンセンスな笑いに徹する生き方。今振り返るとちょっとカッコ良いですよね。

そしてやはりどこかに漂う孤独感。そんなダンディでもあり共演者さんを含めてモテたようにも聞いていましたが、結局誰とも結婚せず。こんなかたちで若くして逝かれてしまった。
ヘビースモーカーで、毎日朝まで飲み歩いて。という話もどこか孤独をまぎらわす行動のように感じていました。


(写真:イザワオフィスtwitter)

なんでしょうね。
志村けんのナンセンスな笑いって、大げさかもしれませんが、誰もがもつ孤独感や死への恐怖の切なさを束の間忘れるためのカタルシスというところがあったと思います。だからこそ、小学生からおじいちゃんおばあちゃんまで万人がどこか深いところで共感したのではないでしょうか。

そんな志村けんが今度は都市伝説でもなんでもなく、本当にしかも流行り病で先に亡くなってしまったのですね。
そして誰も「大丈夫だ~」と、「死」と「孤独」の切なさを笑いに転化させてはくれません。
我々は今ただその喪失感とショックに耐えることしかできませんし、ご冥福を祈りたいと思います。

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