【第14回】衝撃の書「ホモデウスを読む」 – ヒトが150歳まで生きる時代が来る?

それならば、平均寿命を倍にするといった、もっと控えめな目標から始めるほうがいいかもしれない。人類は二〇世紀に、四〇年から七十年へと平均寿命をほぼ倍増させたから、二一世紀には、少なくとももう一度倍増させて一五〇年にできるはずというわけだ。不死には遠く及ばないとはいえ、これはやはり人間社会に大変革を起こすだろう。
(中略)
キャリアについて考えてほしい。今日、人は一〇代や二〇代で一つ職能を身につけ、残りの人生をその職種で過ごすものと思われている。実際には四〇代や五〇代になってさえ、新しいことを学ぶのは明らかだが、人生はたいてい、まず学ぶ時期があって、働く時期がそれにつづくというふうに分かれている。だが、一五〇年生きるとなると、それではうまくいかない。新しいテクノロジーにたえず揺るがされている世界では、なおさらだ。人々はこれまでよりもずっと長いキャリアを送るので、たとえ九〇歳になっても、自分や生活や働き方を何度となく一新しなければならない。
それに、人々は六五歳で引退することもなければ、斬新なアイデアや大志を抱いた新世代に道を譲ることもないだろう。物理学者のマックス・プランクは、科学は葬式のたびに進歩するという有名な言葉を残した。ある世代が死に絶えたときにようやく、新しい理論が古い理論を根絶やしにする機会が巡ってくるという意味だ。これがあてはまるのは科学だけではない。ここで少し自分の職場のことを考えてほしい。あなたが学者だろうが。ジャーナリストだろうが、料理人だろうが、サッカー選手だろうが、上司が百二十歳でヴィクトリアがまだイギリスの女王だった頃に生まれたアイデアにしがみついており、あと二〇年は上司であり続ける可能性が高かったら、どう感じるだろうか?
政界ではいっそう悲惨な結果になりかねない。たとえば、プーチンにあと九〇年も居座ってほしいだろうか?いや、よく考えてみると、もし人の寿命が一五〇年だったら二〇一六年には一三八歳のスターリンが矍鑠(かくしゃく)として依然モスクワで君臨しており、毛沢東は初老の一二三歳、エリザベス王女は一二一歳のジョージ六世から王座を引き継ぐのを手をこまねいて待ち続けているはずだ。息子のチャールズに至っては、二〇七六年まで順番が回ってこない。

ユヴァル・ノア・ハラリ. ホモ・デウス 上 テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来
(Kindle の位置No.523-551). 河出書房新社. Kindle 版.
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先日日本最高齢の女性がテレビで紹介されていました。
産経ニュース
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福岡県の116歳の女性。見るからにも健康、お元気そうで、人間は健康であれば全然100歳以上でも幸せに過ごせるんだろうなというビジュアル的な説得力もあり、素直におめでたく感じました。
「死ぬ気はせん。そんなことは考えたことがない」
「楽しいことはたくさんある。(施設の)友達と遊ぶことが多い」
「何でもおいしくいただく」
過去にもキンさんギンさんをはじめその時代時代のご長寿チャンピオンの方が敬老の日など折々に紹介されますが、このあっけらかんと屈託のない感じは共通しています。人はすごく年をとるとその存在自体がすでに仏さんのようになると言いますが、やはりどこかありがたさを感じてしまいます。

筆者のハラリが言うように、人類は二十世紀に平均寿命を倍増させたわけですから、我々が生きている間に画期的な医療技術の進化で150歳まで生きるようになることが絶対起き得ないとは言えないように思います。確かに不死となるとまだ道筋が見えませんが、100歳を超える長寿命化は、この福岡116歳の女性のようにすでにそこにたどり着いている人もたくさんいるわけですし 長寿な日本のこと7万1238人(うち女性が6万2775人だそうですが!)の方がすでに100歳以上とのことです。

先回書きましたが、「死」を「永遠の無」と考えるべきか、「死」を「永遠の無以外の何か」と考えるべきかは検証の方法が恐らく永久に存在しなさそうですから、その限りは、養老孟司先生やこの福岡116歳の田中さんがおっしゃるように「無駄だから考えない」とか「死ぬ気はせん。そんなことは考えたことがない」というスタンスが一番合理的なのですが、まあ「死」をどうとらまえるにしても、私自身は「今生きている生」はとにもかくにも存分に楽しみたいと考えています。そうであるとすれば長い方が、それは圧倒的に都合が良いことは確かです。

でも自分だけで考えればまったく都合の良い超長寿も、みんながそこまで長生きする社会として成立するかは微妙ですよね。今でも高齢者の運転が問題視されていたり、医療費負担の問題、介護の問題が山積していることを考えれば、もし人が150歳まで生きる時代が来るとしても、まず普通に健康でせいぜい現在の中高年程度には支障なく生活できる超高齢者でなければ、実際には野垂れ死ぬしかないですよね。50年寝たきりと言われても本人も周囲も辛すぎるものがあります。

さらに社会的な生き物であり、政治的な生き物であるサピエンス・人類の側面を考えれば、筆者ハラリの言う通り悪いことしか思い浮かびません。確かに毛沢東、スターリンと比べれば習近平やプーチンは圧倒的にかわいらしい存在に思えてきます。

自分たちの身の回りを考えても、例えば会社の大物社長は100年とか君臨するようになるわけです。権力志向というのはなんだかんだ言っても出世に欠かせない部分がありますから、大物社長にまでなりおおす人物が自分からその座を降りる気がないことは、火を見るよりも明らかです。ナベツネはあと50年読売新聞のトップで居続けるわけです。
戦後の日本は戦争やパージでなんだかんだとうるさい上がいなくなってしまったところから、ソニーやホンダなど若い企業家が闊達にノビノビと仕事をしたことで高度成長を果たしました。私のいる広告業界にしてからが、当時押し売りと同列に見られていた広告業を、戦争の混乱もあり東大からほとんど間違いで電通入社した中興の祖吉田秀雄が、戦後の混沌の中でまったく自由にその剛腕をふるったことでなんとかなった業界です。
そんな日本の企業社会も随分と停滞感や成人病的な閉塞感が漂うようになってきていることを考えればとてもじゃないですが、人生150年時代に二十世紀には上手く機能した「会社」という組織ですが、そのままでは機能不全を起こすに違いありません。
スポーツの世界もそうですが、人間社会の活力を考えるとき、私自身はすでにある程度年を取っていく立場ですから悔しいですが、キープヤングな社会の在り方が必要とされる部分があることは否めません。

そう考えると、個人にとってはどこまでもやるせない「死」という代物。
どうせ人間の細胞なんて毎日少しずつ入れ替わっているんだから、その仕組みを永久機関にさえしてくれれば良いじゃないかとボヤきたくもなります。
もっと言えば生きとし生けるものすべてが、世代交代、代替わりしながら種を進化させ残す仕組みになっていることには、ある種必然的、根源的なセオリーが秘められているのかもしれません。

<ブリューゲル「バベルの塔」>
超長寿でもなんとかなるか分からないわけですが、まして「不死」などという考えは、バベルの塔のように自然の摂理に根本的に反する、不遜極まる答えのないテーゼなのかもしれません。

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