【第44回 家族に障害児がいます from N.Y.】他人と比べない、比べられない育児

障害のある我が子の成長を他の子供達の成長と比べたりせず、自分の子供だけを見てその成長を見守ることが大事とよく聞く。確かに。そういう心持ちで我が子の成長を見守り、励まし、支えることが本当に大事だと、たった12年ほどの子育て経験しかない現段階でもその精神の大切さを痛切に感じている。そして実際に、あまり他者との交わりが無い子育てのお蔭で普段はあまり他所のお子様達との違いについて深く考えることはない。この場合は孤独な育児の方が精神的に良いという状況。有難い。でも生活を送る中で他の子供達の存在を完璧に除外することなど出来ないのが現実。うちの息子と同い年の子供達とはとても比べ物にならない状況なのは周知の事実で、既にかなり早い段階で諦めているので悶々とすることはないのだけれど、息子よりもずっと後に生まれた子供達の成長に知らぬ間に追い越されている事実を目の当たりにするたびに、正直何とも言えない気持ちになる時もある。この気持ちは年数が経てば経つほど強くなるようだ。息子の実年齢と精神年齢や認知能力の乖離が大きくなればなるほど、他の子供達の成長がその事実の大きさをより鮮明に表している感覚になる。何年経っても同じようなことを繰り返し、繰り返し行っている私には想像もつかない子供の成長の早さというのを他所の子供から感じる。子供を通して知る人気の音楽やテレビ番組(現在だったらYouTubeチャンネル?)、スポーツやゲームなど、そういったことに我が家は疎い。疎いというよりも無知。子供の社会に関わる問題やら親子関係の難しさや喜び、色々と体験するであろうことが我が家には完全に欠けている。子供の成長はあっという間と言われるけれど、望めるのならばそう言える立場になってみたいと思うこともある。一応子育てをしていることにはなっているけれど、本来の子育てということを今までもこれからも経験することはないのだなと思うと少し寂しい気持ちにもなる。逆にほとんどの人が経験出来ないことを体験しているというのも不思議な感じだ。

(写真Pixabay)

あまりこういう状況について共感出来る人はそうそういないので、そういう状況を理解し共感出来る相手と知り合えた時は本当に幸せな気持ちになれるという有難いオプションがある。理解してくれる相手がいることでくじけずに居られるのだと思う。私の中では障害を受け入れるということは、諦めるということとほぼ同じと感じられている部分がある。もう色んなことを諦めてきたということは、受け入れざる得ない状況を目の当たりにしてきたということだ。こんな小さい子共が当たり前に行っていることを、うちの子は何度も何度も繰り返し繰り返し教え続けていても全く出来ないことばかり。出来たことは数えるほどしかないけれど、出来ないことは数えきれないほどある。普通の人は教えなくても理解して出来る概念のようなことについては本当に伝えるのは難しいし、伝えたとしても理解されない。堂々巡りの育児に人は段々と慣れていくし、がむしゃらに頑張ることも止めてしまう。でもそうなってからようやく少しだけ落ち着いた気持ちで子供に向き合えたりするから不思議だ。何でも頑張れば結果が得られるということでもないのだと、私は子供を通して教えられる毎日である。むやみに他人と比べることはしないように努力しているが、しかし他人との比較をすることで自分たちの現在地というか欠けてるものを再認識することができ、他の人達と上手く関わっていけるような気がする。あまりの成長の違いや、私達が決して手に入れることのない親としての新境地に羨ましい気持ちが起きない訳ではないけれど、手に入らないことに無駄に固執することがないように、自分をコントロールすることが私の人生の修行なんだろうと自分に言い聞かせ、これからもずっと歩き続けるしかないんだと思う日々である。

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