【第36回 家族に障害児がいます from N.Y.】障害受容

障害を持つ当人の障害受容と障害者の家族としての障害受容とは少し視点も変わってくるだろうし、障害を受容する時間もプロセスも違うのかもしれないけれど、どの人にとってもそれは簡単なことではないということだけは分かる。私の場合、今も完璧に息子の障害を受け入れられているかと聞かれたら、はっきりと「受け入れている」とは言い切れないかもしれない。だが現実を突きつけられる日々に諦めているという感じではある。しかし我が家の場合は知的障害も重い方なので、これはもう現実に蓋をすることすら無理なレベルなので受け入れざる得ないという感じではあるが、もし息子の障害が軽いレベルだったらどうなんだろうと時々考えることがある。その場合はいつか頑張れば息子は普通の子と変わらず生活出来るようになるのではないだろうか、と楽観的な期待を持ってしまう気がする。実際、軽度の障害レベルの人であれば本人の努力と工夫、そして周りの適切な対応で問題をかなり小さくすることは可能だと思う。それは決して楽なことではないかもしれないけれど、希望は限りなく大きいと思う。ただその場合は周りの理解と受容する態度が大変重要になってくると思う。困難を感じている当人を支えて受け入れてあげ、安心して過ごせる場所を作ってあげることが必要だろう。どんな立場の人にとっても、自分の居場所というのは本当に生きていくために大事なんだなって痛感する毎日だ。なので家族としては子供の現状をあるがままに受け入れたい。だけどそれは気持ちが行きつ戻りつを繰り返しながらの、長い時間を掛けて進んでいくことなのだろうと思う。私自身も最初は動揺と絶望を感じながら、徐々に諦めに似た心境で現在に至る。うちの子の場合はここから飛躍的に障害が軽くなって行くことも考えられないし、むしろ大人になるにつれて多くの困難があるだろうと軽く想像出来る。現段階で障害児の息子自身が自分の状況を理解出来ていないことが幸運なのかもしれない。だけど将来、もし彼が自分自身が他者と大きく違うということに気付き、周囲から向けられる奇異なものを見る視線に気付いた時がきたら,それは我が家にとって新たな挑戦となるだろう。このまま重い障害の状態で周りの状況に気付けづに暮らすということも、彼自身のことを考えると良いことなのかもしれないと思いつつ、誰とも人間関係を構築することも出来ず、意思の疎通も満足に出来ず、不満があれば癇癪を起こすということでしか意思表明出来ないような大人になって、周囲の人達から只々厄介者扱いされる存在であるのもどうかと思う。

Mario RenteriaによるPixabayからの画像
彼のための理想的な未来像は見えない。ただ私の現状としては比較的恵まれている方だと感謝しかない。息子の障害を受け入れてくれた主人や家族、そして見守ってくれる友人や関係者、悩みを理解してくれる同じような障害児をもつママ友に恵まれたことは本当に幸運だと思う。期待はせず、だけど希望は失わずというスタンスでこれからも生温く息子の成長を見守っていきたいと思う。

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